ぽぽぽ?(仮)

日々もろもろ。

人生とスター・ウォーズなどという大層な

年末に思い立って『スター・ウォーズ エピソード7 フォースの覚醒』を観て以来、ずいぶん久方ぶりに定期的な映画館通いをしております。自発的に通うのは殆ど初めてかもしれない。たまにあの音響が恋しくなってなんとなく行ってたりはしたけども。

スター・ウォーズ』に関しては10歳くらいの時に親の手配により旧3部作(エピソード4~6)をしっかりと、特にエピソード4に関してはタイミングも良くデジタルリマスター版を映画館で観る機会に恵まれまして。なんというか、こういうものの親の影響ってすごいなぁと思いました。勉強しろと言われた覚えはほぼないのですが、漫画を買ってくれたし映画を観せてくれた。まぁ、特に母が好きだったんですよね。その類を、非常に。反面、音楽に関しては殆ど無趣味な人たちだったから(兄に関してもそうだった)、私の音楽遍歴は完全に孤立した歴史を持っているのだけれど。

閑話休題。エピソード7でハリソン・フォード演じるハン・ソロに…老齢のソロに再会した時、それはもう、圧倒的な感動があったわけですよ!! 最初に観た時、私けっこうオーバーアクションだったから隣のサラリーマンのおにーちゃんゴメンね! って思いながらだったんだけども。でも、抑えようもなくてですね。再会に要した20年…(リアルタイムで追っている人はそれが30年になるんですな…)、私の人生と、ハリソンの人生と、スター・ウォーズという稀有な物語の20年…。その時間の重みがガツンときまして。マーク・ハミルキャリー・フィッシャーもそれはそうなんだけど、でもやっぱりハリソン・フォードは年齢を重ねる過程を他の映画で多々観る機会があったからとりわけさ。そのハリソンがソロで帰ってきてさ、もうネタバレでいくけど、最初のセリフが「懐かしいな」って、瞬時に「私も懐かしいです船長ぉぉぉぉぉ!!!」ってなりましたよね!!?

だから、ハリウッドスターとして大成功を収めたハリソン・フォード演じるソロを序盤から登場させ、そして華々しい銀幕から遠ざかっていたマーク・ハミル演じるルークを孤高の隠者として引っ張ったあの脚本は、やっぱり彼らの実際の人生あってじゃないかぁって、けっこう思っちゃうわけです。あの2人の旧3部作後の人生こそが今回の3部作を描いたんじゃあなかろうかって。そしてハリソンは、その役者人生の最初の大輪を咲かせたハン・ソロに30余年を経て帰還し、まっとうしたのだなぁ…。という、人の人生と自分の人生重ねて泣けちゃう現象…。

こんなにスター・ウォーズの話をするつもりじゃなかったんだけども。まぁいいや。どっかに1回ちゃんと言葉にしなきゃだったんだろう。というわけで、親に連れられて月イチくらいで映画館に映画を観に行って、加えて休日にはレンタルビデオをTVで観てた中高生くらいの頃以来、映画を観ています。もう家でじっと画面を見つめ続けるだけの気力体力が無いので、もっぱら映画館です。何本かとても良い映画や、割とどうでもいい映画だけど観て良かったなって映画(伝わらないかもだが、映画に限らずそういうものってないですかね??)を観たけど、少し書いておこうかな。続くか分からないけど。というわけで、スター・ウォーズの話でした。映画館で4回も観たのは初めてだし、今後これを超えてくれる作品が現れるかはすごく未知数。でも、そんな作品に逢えて良かった。あの旧3部作リスペクト感+αスペシャルな感には泣くほかなかったとです。物語にもだけど、語り部たちの物語への愛にもさ。

どうしても書けないということについて。

やはりもう少しまとまった文章を書くべきなのじゃないかと思い立って、ここではない場所に下書きを書いていたのですが、どうしてもその文章の中に自分で魅力的なものを感じることができずに、けっきょくはこのまま筆は進まないのだろうなぁと思い、そしてまたここに文章を綴っている次第です。

もしも私の中にかろうじて物語を紡ぐ力(今回書こうとしていたのはフィクションではないのだけれど、それは大した違いじゃない)がささやかながらあったとして、それはやっぱり随分と昔に失われてしまったみたいだ。あるいは〝自分の物語を信じぬく力〟というのが正しいのかもしれないけれど。

だからやっぱり、この場で書き散らかせてもらう以外は選択肢はないようです。この程度の文章なら長い時間をかけて信じ抜くという作業を伴わずに書くことはできる。そうゆうものを人様にお見せできる場所に置いておいて何になるのかと訊かれればまぁ答えに窮してしまうのですが、個人的な療養として使用させて頂きたい、と。思いつくままに駄文を刻まさせて頂きたい、と。そう思ったわけです。

ところで昨夜というか今朝というか、地震の夢を見ました。というのは適切な表現ではなくて、揺れの夢を見た、というのが実際には近いんだろうなぁ。強い揺れを感じて目を覚まし(たぶんこの時点で一応目は開いていたと思う)、ガクガクと揺さぶられたままに布団の中から出入り口の引き戸に必死で手を伸ばしてとりあえずの動線を確保しようとし、そうしているうちに揺れは収まった。地震だったのかどうか、いまいち判然としないところはこの時すでに感じてはいて、寝ぼけ眼でスマホを点けたら画面が妙な表示に見えて、もしかしたらこの時もまだ片足夢の中に突っ込んでいる状態だったのやも。

朝、きちんと目覚めて気象庁のHPで昨夜の地震の記録をたどったけれど、私の居住地域では震度1さえ発表になっていなかった。確かに私は大きく揺れていて、逃げなければならないほど身の危険を感じたのに。〝揺れていたのは世界ではなく、私自身だったのだ。〟と書いていた人を私は1人知っていて、それは実は「地震」を体感していた時から思い出してはいた。この揺れは、私の内から生じたものじゃないのか。そしてまさしくそうだったわけだ。

私自身は、彼がその揺れから獲得したような啓示をとても導き出せそうにはないけれど、それでも私の中で何かが震えたというのならば、そう在ったことを記録しておこう。またすぐにこの場も途絶えるのだろうけれど、思い出しては書き綴っておこう。それが自分が書く文章の強さを信じることができなくなってしまった(取り戻そうとする試みは何度か行われたが、その度に無力を痛感するだけだった)私に最後に残された、ささやかな物語なのだと思います。あの揺れに、そんな啓示を重ねられたら素敵なのだけれどな。

同時代人の物語

村上春樹を読んでいて、「じゃあフィッツジェラルドを(つまりは『グレート・ギャツビー』を)読んでみよう」と思い立ってページをめくり出したわけだけれども(※野崎孝訳)、なかなかしんどいところのあるものですな! 古典読むの久々だからテンポ感を身体が思い出さないのって大変だよね! てゆーか、やっぱり、同時代人でしっくりくる作家さんがいるのならそれに越したことないなって思った次第で御座います。音楽も小説もね。絵画もね、最近は何か、近しい時代性の作品の息遣い的なものをね、感じられるようになってきた気がする。そこはジャンルとしていちばん不明瞭なんだども(笑)。

気付いたらば未だに『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ばかり手に取ってしまう。人生の段階として切実にこの物語を必要としているのだということがはっきり実感できるし、またそのような物語が寄り添って在ってくれることにただならぬ感謝しかないで御座る。読むべき時が来たらぜひ読んで欲しいなぁと人に薦めたくもなるけれど、私も初出の段階ではこんなにも自分にとって欠かせない、また道標のような作品であるとはぜんぜん気付けていなかったので。でも、思い出した時にすぐに手に取れる場所にきちんといて待っていてくれたから、待たせといて欲しいとも思いまする、ハイ。

あと、『雑文集』がね! 文庫になったからやっと入手したよ!! 新書で買っても良かったねって読んで思ったけどね!!
内側からそっと暖めてくれる小編がたくさん収まっていて、たくさんなのでいろんな角度から暖めてくれるので、そのぬくもりは噛みあった長編小説がもたらしてくれる熱量とは比べられないけれど、手触りを持ったささやかな温かみに溢れております。
私はビーチボーイズの一切を知らないけれども、だからこそ『みんなが海をもてたなら』がひとつの物語として美しく感じられるような気がするのであります。あれ、好き。バンドという仕組みの美しさの全てが包括されているなぁと(その美しさの中には、醜さも含まれていると思うのです)。

「お払い箱にしてもおかしくはないようなトラブルに満ちた家庭を、それが家庭であるという理由だけである種の人々が懸命に維持しようとするのと同じように、彼らはビーチボーイズという価値を、旗じるしを、フォーマットをみんなで力を合わせて守りつづけた。」

あとは『ビリー・ホリデイの話』…。私もこんな風に音楽を語ることができたならばどんなにか素敵だろうと思うのだけれど。ひとますは一昨日観たライブで灯された松明が確かに今もまだ胸の中で燃えているので、これ以上に素晴らしいことなんてないなって思っています。またあの時の、恋に堕ちたままの手つかずの衝動を手にできるなんてこれっぽっちも思っていなかったんだ。冗談抜きで、5年ぶりくらいの。brainchild'sの『HUSTLER』がね、もうね、すごいんだわ(笑)。この同時代人の音楽について、美しい物語を私自身が描けるようにちょっと頑張りたいくらい(笑)。
ここに終着点を設定して書きだしたわけじゃ一切なかったんだけど。『ジム・モリソンのソウル・キッチン』じゃないけれど、俺の魂に火をつけてくれたのだ。

HUSTLER(DVD付)

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「それ自体価値のあるものなのである」

こんなにも観て、聴いて、読んで、果たして私自身はどうするつもりなのか。

そういう疑問や違和を感じてしまった時にいつも思い出しては肯定してもらっているのが、ヘルマン・ヘッセが世界文学文庫に寄せた言葉。


「本当の教養は、何らかの目的のためのものではなく、完全なものを目指すすべての努力と同様に、それ自体価値のあるものなのである」

「≪教養≫すなわち、精神と情緒を完成させるための努力もまた、ある限られた目標に向かう難儀な道ではなくて、私たちをよろこばせ励ましながら私たちの意識を拡大し、私たちの生きる能力と幸福になる能力を豊かにすることなのである」
  ――ヘルマン・ヘッセ著/岡田朝雄訳『ヘッセの読書術』草思社文庫(2013)


・・・ヘッセは、1作も、読んだことないけど(^o^)

思い出す1人の女の子について。

贔屓じゃないけど、いや、贔屓なのか!?
もうそういう言葉の範疇の外にある問題なんだろうとは思うのだけれど。

投稿しただけで漫画を50本くらい描いていて、もちろんそれ以前から漫画と呼べるのか相当疑わしいシロモノも描いていて。その数だけ主人公がいるんだけど。99.9%は女の子だったなぁ。男の子描くの苦手だった。0.1%はもしかしたらヒロインと同じくらいの割合で精神的に主人公だったような男の子がいたような気がしないでもないなと思ったので…。

50人以上のヒロイン、ぜんぶ思い出せないよね\(^o^)/
いやしかしだなうーん、今思い出そうとすればわりかし出てくるなって思った。あんな子いた! そうそう、彼女にはちゃんとハッピーエンドを用意してあげられたんだ。ややこしいことしてごめんねなどと。

だけどですねぇ、何かにつけて思い出しては夜更けに未だに頭の中で動かしている女の子(と、彼女の恋人になったであろう男の子。作中でははっきりさせなかった。なんというか、それどころじゃない話だった…)。ガンガンのファンタジーで、バリバリにつらい運命背負わせちゃったけど、強い瞳で私の拙い物語を駆け抜けてくれた。あの子を今でも自分の中に保って、息をさせてあげられていることは、私にとってとても幸福なことだなぁとふと思ってしたためる、ただそれだけの文章なので! ある!!

あ、良かったなって。なんか、唐突にそれだけ思ったよ今夜(笑)。
私。本当にあの子たちとあの物語は特別だったんだろうなって。自分の憧れの結晶だったんだろうなって。なんせ、3回描き直したし(笑)。ぜんぶ落ちたけどもな(笑)。

「私たちはもう1度出会うだろう。出会うべくして出会うのだろう」って。そう言ってくれた、強い女の子。憧れの女の子。ありがとうね、これからもよろしく。

終電後の羽田空港から横浜駅らたへんまでの帰り方(データ2016年3月)

ちょっと北海道まで行ってたんですけど。
会社の人に1泊2日と言ったら「弾丸!!」って驚かれたけど、別に自分やその周りでは通常運転だから感覚の違いっておっそろしいなって思ったんですが。早朝に出て深夜に帰ってくればまるまる2日で、今回はそれでたっぷり2本も良いライブ観れたし!

◆◆◆本題◆◆◆
で、ご機嫌で「さーあ帰ろう!」と思って新千歳空港に行ったんです。
したら、利用便が2時間遅れだったわけです。
うむ。格安航空のリスクを知って予約したのは私である。しかし1時間遅れても羽田から自宅までの終電には余裕だと思っていた私の予測の上を行く2時間遅れ。けっきょく羽田空港に到着したのは24時45分。ありとあらゆる電車はすでにないですね。

しかし、電車は無くともバスはある。深夜バス。方面と本数はぐっと限られますが。
幸い私は、横浜駅まで帰りつければ、ある程度光が見えてきます。よし頑張って帰ろう明日も仕事だよ!!


で、深夜バスの発着場所は羽田空港国際線ターミナルのバス乗り場です。行ったことあるわけない、羽田の国際線とか。
でも大丈夫、こうゆう終電後の到着便の時はいつもそうなんだろうなと思ったのですが、お客さんを待ちかまえて「深夜バス発着の国際線ターミナル行きの無料バスはこちらです!!」って誘導してくれるスタッフさんがおります。というわけでそのまんまバスに乗ります。たぶん歩いていくとかなり遠いってゆうか、特に深夜すぎるしよく分からないです。

とゆーわけでポッと国際線ターミナル1Fに着きます。けど、着く場所は別にバスターミナルじゃないので目の前の建物に入ります。国内線は全ての終りみたいな状況だったけど、ここのローソンは大繁盛営業中で有難かったす。バス乗り場へは1回エスカレータで2Fに上がりましょう。そんで、あとは「バスターミナル」の表示を見つけてがんばって行きましょう、すぐです。

深夜バスに30分弱揺られると横浜駅東口YCATに着きます。速いです。横浜近いんだね。
で、実はここからが本題です。YCATのタクシー乗り場ではタクシーがつかまらない。
時間が遅すぎて待機しているタクシーが1台2台で、先にそのタクシーが出ちゃうともう1度帰ってくるまでタクシー来ないんじゃないかと思うんです。しかも他にもタクシー待ちの人けっこういるし。この時点で深夜2時を回っています。YCATは割と利用してるけど、こんな時間に来たのは初めてだよ!! 普段開いてる出入り口がとことんシャッターで閉まってるんだよ! どーすりゃいいねん。というわけで、私はタクシー乗り場から外に出ました。外に出る道が他に見当たらなかったので。

YCATのタクシー乗り場を右に行くと、国道1号が走っていて、その向かい側が横浜駅です。私は1回横浜駅東口地下街ポルタのタクシー乗り場を覗いたんですが、ここにも1台もいませんでした。昼は30台くらいいるのになー!
でも大丈夫、私は1号線を渡った東口の前(郵便局とか崎陽軒とかある方)に2台いたタクシーを拾いました。運転手さん、歩道橋の階段を駆け降りる私の姿を認めると早々とドア開けてくれました。ふううぅぅ・・・。

もしかして東口のそこにもタクシーがいなかったら。大丈夫、西口には朝まで営業している飲み屋やらカラオケ屋やらがいっぱいあるんで、そっち行けばきっとタクシーいるんじゃないかしら(確認してないけど)。ともかく、横浜駅の特に東口は渋谷や新宿とは違って夜はちゃんと眠ってるんだなぁ~と。健全。でもタクシーいない時がいちばん焦った…。

あと、私は航空会社が地上の帰路の交通費を負担してくれるというから惜しげもなくタクシー使いましたが(そんなにかからないし)、諸々事情で横浜駅で足止めを食う場合はYCATの真上、スカイビルのスカイスパを利用するというのも手だと思います(と言いつつ私は利用したことないです)。朝までお風呂に入って仮眠もできるはずです。
まぁ、なんか、面白かったです(笑)。タクシーいない時ほんとどーしようかと思ったけど!!

描き続けることはできなかったとして、在り続ける体温としての。

幼少期から漫画が好きで、商業漫画家になりたいなどと思いこみ、15歳の頃からB4サイズの原稿用紙をカリカリと線と文字で埋め尽くし、そうして出来たものを封筒に詰めて出版社に送り始めた。その生活に終止符を打って、筆を折ったのが26歳の頃だろうか。実はかなり不確かな記憶で、それでもおそらくは25,6歳だとは思う。その曖昧さが物語るのは、描くことをやめたということは私にとってそれほどまでに印象的なことではなかったという象徴なのだろう。

小学校の卒業文集に「漫画家になりたい!!」と堂々と書き、殆ど10年間描き続けたけれど、その10年も思い返してみればおそらくは3年間くらい描いてないんじゃないかという時期が挟まっている。大学受験に勤しんでいた高校3年生の頃と、就職してからの数年間のどこかで1年間くらいと、あとは半年に分けて2度くらい描かなかったという記憶がある。最初の受験の時は「描かない! 大学受かったらまた描く!!」と強く決め込んでの休業だったわけだけれど、他は疲れたから休んでいたという、そういう流れだったのだと思う。

今ではもはや私には何も描くことはできない。不意に何かを描きたいような、そうするべきなのではないかと思う夜も確かにある。けれどその思いは、淡雪の如く次の朝にはきれいさっぱり消え去っている。その度に思うのは、「私はもう何をも描き切る力も持っていないのだ」という事実だけなのだ。「ああ、やっぱりもう描けないのだ」、と。

最後の作品を描いた年齢は覚えていないけれど、最後の作品を完成させた時の心持ちについてははっきりと覚えている。その10年間で、おそらくは50作くらいは投稿したのだろう。その果てに、「横ばいを続ける評価が、この作品で上でも下でも振れたなら、まだ描き続けよう」と決めた。上でも、そして何よりも、下でも。そういうものを描こうとした。最低評価でも食らいやがれ、と。そしてそれは叶わなかった。評価は上がりもせず、そして何よりも残念ながら下がりもしなかった。

その時に私は自分の表現にとってここがどん詰まりなんだということを知ったわけだけれど、それは絶望とか悲しみではなくて、とても自然に体の中に馴染む感覚だった。終わりにするに相応しい、と。そのように私は自分の物語を信じて、休日は文字通り朝から晩まで齧りついて描いていた日々に別れを告げた。そして今の私は何も描けなくなった。描けないということがはっきり分かっている。ひとつの話を最初から最後まで確信を持って物語る語り部足る力を喪失した。この感覚を正確に伝えることはできないように思えるけれど、でもとにかく私にはもう何も描けないのだ。

10年。ブランクを抱えた、便宜上の10年。あの情熱は溶けて消えた。だけど、なににせよ、人に物語を伝えるために言葉を選び続けた日々は重く有益だったと確信できる。表向きの行動としても、内包的な熱情としてのそれも儚く消えてしまったかもしれないけれど、とても強い芯のようなものが私の中に手触りのあるひとつの存在として確固として在るのが分かる。それは未だに体温を持って息をし続けている。

私が人生で得た、それは私にしか通用しないかもしれない、それでもひとつの訓示である。続けても休んでも辞めても、一見して消えてしまったかのように見えたとしても、強烈な意志を持って費やした時間はひとつの結晶になって共に生きていく。だからこの先どこに流されようと、再び情熱を捧げたことを続けても休んでも、そして捨て去ってしまっても、それはいつでも自分自身として在る。在るのを感じて進んでいく。

けれどいつか再びめぐり逢えたらと、おそらくは願ってしまうだろうし願っていたいとも思う。そしてそれについては、あまり心配するようなことでもないと思っている。私にはもう何も描けないけれど、それでもそう思う時がある。それでいいと思う。だから、逢えるよ、また。