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ぽぽぽ?(仮)

日々もろもろ。

かなりぼわっとした不思議な話。

これは私が体験した、「けっきょくあれは何だったんだろう??」という話であり、そういう話にままありがちですが、とってもぼわっとしています。ふわっふわです。
なんかいきなり思い出したので書いておきます。

たぶん中学生の時だったと思うのですが(それも定かではない)、家族4人で映画を観に行った帰りに、夜道を車で走っていたわけです。午後9時くらいだったでしょうか。父の運転で助手席に私、後部シートに母と兄。田舎の、人家もまばらな片側1車線ずつの、まぁ、普通の道路。
うちの車の前後にも数台車が繋がっていて、田舎のその時間帯の道としてはそこそこの込み具合だったと思われます。当然、視界には前の車の後ろ姿。


突然、前の車が対向車車線に大きく逸れました。私も父も「!?」とびっくりしたのですが、前の車が避けた道路には、謎の茶色い物体が…それも左手の山の方からセンターラインを越えるくらいまで、高さとしても最大で80cmくらいはあるんじゃないかという…肉質のある物体が横たわっていました。それは動物的でありながらも毛はなく、頭や手足なども確認できませんでした。動くような気配と言ったものもありません。しかしながらそれは決して土砂や倒木ではなく、肉感のある、茶色い何か…知ってる人にしか伝わらないと思うのですが、「『スター・ウォーズ』に出てくるジャバ・ザ・ハットのしっぽの方がでろ~んを横たわっている」…冗談抜きでそれです。

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一瞬のうちに父も思い切りハンドルを切って、その物体との衝突を避けました。幸いにも対向車はなく、その場を切り抜けました。うちの車に続いていた後ろの車も、同様にして避けたようでした。

その後5分ほど走らせて無事に自宅に帰り着きました。しかしその車中から「いったいあれは何だったのか?」という議論は白熱。特に後部座席の母と兄は、前方の私と父ほどには状況を理解しておらずにいました。そして帰宅して10分ほどたった後、兄と父2人が「もう1回見に行って来る!」と言って再びその現場へと向かって車を出しました。

そしてまた10分後、父と兄は帰宅しました。そしてこう報告してくれました。


「何もなかった」


・・・以上です。

運動はとても苦手です。

そもそも血液成分が平均値より薄いので、全てにおいて息切れします。酸素が足りない。

●長距離
小学6年生の頃、2kmを9分くらいで走れました。それがピーク。もう無理。

●短距離
ぜんぜん関係ないんですけど、小学校のグラウンドが小さくて、斜めにムリクリ50mのコースを作成していました。そこには余裕と言うものが存在しませんでした。そんな感じです。

●水泳
中学校にプールが存在しなくて(小学校にもしなかったんだけど)、なぜか近所の体育系大学の水球用のプール(水深2m)を拝借して水泳の授業を敢行し、結果溺れた。誰にも気付かれなかったので自力で這い上がった。水には入るものじゃない。

●バスケットボール
ルールが分かる。なぜなら小学校時代ミニバスケットボールをやっていたから。レギュラーだった。人がいなさ過ぎて(学年女子7名)。でも、最後の大会で市内11校中3位になった。今思い返すとすごくナゾ。なんで???

走り高跳び
郡内の陸上大会のために駆り出された。人がいなさ過ぎて。115cmくらい跳んだんだけど、それがどんなもんなのか未だにナゾ。ちなみに110mハードル補欠。短距離の遅さはヤバかったけど、障害物が入ることによってそれが多少なり緩和されたらしい。なにそれ。

●バレーボール
痛い。

●ゲートボール
小学校5-6年時、ゲートボールクラブ所属。ゲートボール、面白いんだけど、道具がちゃんと揃ってないと何もできないのが最大最強の欠点。スティックとボールとゲートと。ハードル高し。

●木
よく登った。今思うと驚異的な腕力だった。土手際に生えてる木から土手側に落ちたことがあるよ。死ななくて良かったね。

水の町とお城の思い出話

水の流れる小さな町が好きです。
小道に寄り添うように水路が張り巡らされているような。せせらぎの音が草木の香りを運ぶような。

旅とも何とも例えようも無く津々浦々を歩いてきたけれど、心に残っているのはそんな小さな町のような気がします。もしかしたら、独りで訪れている町に水の町が多いからかもしれないけれど。そして独りで歩いていると、否が応でも他に気に留めるものが無いから。

宮城県の白石は本当に小さな水の町だったけれど、丁寧に再建されて新しい木の匂いで満たされたお城が素敵だった。その周囲をぐるりと回る水路に、鮮やかな鯉がたくさんいる場所があり、水草が花をつけてそよいでいる流れがあった。お城の脇の、ごくごく普通の神社が印象的だった。

滋賀の近江八幡は、華やかな水の町だった。琵琶湖のほとり、さもありなん。流れにかけられた小さな橋を飛び超えるように渡るのが楽しかった。近くにあった民族資料館に入って、大学生のころを思い出させてもらったり。博物館学、まったく職業には行かせてないし将来的にも望みはないけれど、教養としてとても有難いなぁと今になっても思います。

そんな近江八幡もとても記憶に残っているんだけれど、国宝・彦根城よりも実は白石城の方が好きっていうのはここだけのお話。なんだろうね、白石のお城、本当に素敵でした。ただそれだけの、でも水の町はどこも素敵で大好きだよって、ただそれだけの、思い出話。いつか、郡上八幡に行きたいなぁ。

偉大なるギャツビーによせて。

グレート・ギャツビー』(野崎孝訳)を不意に読了いたしました。思いもかけずに。

新潮文庫の100ページあたりのところに栞を引っかけたままにしていたのですが、昨夜はその紐を無視して改めていちばん初めからページを繰ってみました。そうしたら、そのまますらすらと読み通せてしまった。事前になんとはなく、「今なら読める気がする」という予感のようなものはあったのですが、タイミングですね。

今さら私が取り立てて語るまでもなく、というよりも私自身もまた作者であるフィッツジェラルドの人生に魅入られて彼の作品に手を伸ばすにいたったわけだから、20世紀初頭のアメリカの喧騒と悲哀を一手に引き受けざるを得なかったような彼の華麗にして破滅的な人生はあまりにも有名だし、作品にその姿照らすこともまた禁じ得ないのだけれど(元来私は芸術家の作品よりも、実際的な人生そのものに惹かれる傾向が強い自覚はあります)。けれど私にとってこの作品を一読して、よく論評で使われる〝滅びの美学〟という言葉は最中まったく思い浮かばなかったなぁ。

私が胸を打たれたのは、〝過ぎ去ってしまった時代の復活に対する不安なまでの執着〟と、あまつさえその復活には〝自己の理想を投影し実現してくれる他者の存在〟が必要不可欠であるというギャツビーの行動の根幹の願望。自分の願望とピタリと噛み合い、望む世界を(それも過去に1度は存在し、しかしながらすでに終わってしまった世界の復活を)体現してくれることを他者に求める(あるいはその世界は望む姿の他者の存在なくしては決して成り立たない)。

「ぼくなら無理な要求はしないけどな。過去はくりかえせないよ」
「もちろん、くりかえせますよ! わたしは、何もかも、前とまったく同じようにしてみせます。あの人にもいまにわかります」
それを聞いてぼくは――何かを取りもどそうとしているのだ――おそらくは自分に対するある観念をでも――取りもどそうとしているのではないかと思った。彼の人生は紛糾し混乱してしまった。だが、もし彼が、いったんある出発点にもどり、ゆっくりと全体をたどりなおすことができるならば、事の次第をつきとめることができるだろう……

求めたのが隣にいる恋人や家族であったなら、それは一般的な欲求の範疇で済んだのだろう。多少度を過ぎた束縛になる恐れはあったとしても。彼の悲劇的で愚かで、そして恐ろしい点は、5年の間離れていたかつての恋人にその望みを抱いてしまったことであり、それも別にもしかして取り立てて珍しい夢ではないのだろうけれど、その平凡にして強烈な夢想が時に滅びの美学と結果的に言われる収束の道を辿らざるを得なくなってしまったところなのでしょう。

あと、これはやっぱりフィッツジェラルド自身がけっきょくは「東部社会(ニューヨーク)の異邦人」でしかありえなかったからこそなのだろうけれど、積極的に差別的発言をするのはトムだけで、ニックには決して強い同調や発言の描写が無いのは、彼の良心でなくコンプレックスだったんだろうなと。そんなことを思いました。

作家フィッツジェラルドの素晴らしい点は、現実の人生にどれだけ苛酷に打ちのめされても、文章に対する信頼感をほとんど失わなかったことにある。彼は最後の最後まで、自分は書くことによって救済されるはずだと固く信じていた。妻の発狂も、世間の冷ややかな黙殺も、ゆっくりと身体を蝕んでいくアルコールも、身動きがとれないまでにふくらんだ借金も、その熱い思いを消し去ることはできなかった。
今なお多くの読者がフィッツジェラルドの作品群に惹きつけられる最大の理由は、その「滅びの美学」にではなく、おそらくはそれを凌駕する「救済の確信」にあるはずだと僕は考えている。
  ――村上春樹スコット・フィッツジェラルド――ジャズ・エイジの騎手」

私は文章についての多くを。

「僕は文章についての多くを…に学んだ。殆ど全部、というべきかもしれない」。

村上春樹がそのデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭で記したそこには〝デレク・ハートフィールド〟という、架空の作家の名が入るわけですが。私にとって人生で初めて小説の文体に衝撃を受けたのは村上春樹その人でした。もう20歳とかになっていたから衝撃を受けるには相当遅い気もするけれど、それほどまでにそうだったとも言えるかもしれないです。

割合、文学少女(死語ですか??)、次いで少女漫画オタクという育ち方をしたので、人並みには文章に触れる機会を持てていたのだと思いますが、だからこそ今まで読んできた文章とは明らかに異質なものとして衝撃的だったのだと思うのです。漫画にとってその役目を担ってくれたのは川原泉さんだったのだけれど、川原作品に出会ったのは小学生の時だったので、衝撃というよりも私の中のスタンダードにそのまますっぽりなりえたというか。母親に「口調が川原泉の漫画の登場人物っぽい」と言われたほどには私は川原さんの強い影響下にあります。

小学生の時分、図書室(田舎の小さな小学校だったのでそれは潤沢な目録を有していたとはいえないけれど、当時の私にとっては不足なかった)で片っ端からとりあえず読んだし、中学生以降はもっと長大な世界的名作に挑戦しもしました。とりわけ古典的なものを好んで読んでいた、というよりかは優れた現代作品についての案内があまりなくて、選ぶのに苦労したからかもしれないです。と言いつつ、佐藤賢一さんの『傭兵ピエール』は中学生時代の当たりだったなぁと今思い出しました。でも同時期に読んでいたのは『赤毛のアン』シリーズであったり(全10冊。私はアンの子世代の『虹の谷のアン』『アンの娘リラ』がとても好きです)、『レ・ミゼラブル』であったり(1~4部までを数カ月かけて四苦八苦しながら読み、5部を2日で号泣しながら読みました)、『罪と罰』は大学生の時だったかなぁ。あれは恋愛色が強くてびっくりしました。本当は『カラマーゾフの兄弟』とか読むべきなんだろうけれど、もうこの歳になると19世紀ロシア人の書いたものを手に取る勇気は出ない…。

でも今思えば、海外作家でも日本人作家でも、けっきょく「このひとのファンだ!!」という作家には巡り合えていなかったんだなぁと実感しました。森鴎外夏目漱石も、三島も谷崎もちょっとずつ齧ったものの。だから、やっぱり、村上作品との出会いは強烈で、その夏中に当時の既刊ほとんど全てを読破したのだから、好きと言うほかないし、きっとそれ以上なのだと思います。だから、この場での引用率も群を抜いてしまうのだけれど。

歳を重ねるごとに読める文体が随分と限定されてきてしまっている、読み切ってやるという強烈な意志が著しく減退してしまっているなぁと『グレート・ギャツビー』を前にヒィヒィ言っている今日この頃。文章が気持ちいいからと、すでに何度も繰った文庫のページを再び開いてしまうのだけれど、それでもいいよってヘルマン・ヘッセが肯定してくれるから、今再び自分にとって素敵な作家さんに出会えるまではそれでいようと思います。ヘルマン・ヘッセもいつかちゃんと読める…のだろうか……。

「すべては、風と共に去りぬ」

というわけで本日も映画を観てきました。決めたからには観る、みたいなところは非常にあるわけです。『ティファニーで朝食を』、1961年、オードリー・ヘプバーン主演。今じゃあとてもこの演出はアウトだろうなぁというのが散見されてそこには時代を感じたんですけど、そういう細かいことを飛び越えて生き残るに相応しい輝きがあるものだなぁと思いましたです。オードリーの可愛さの強みは、流行に左右されないあの感じですよな。で、私、ホリーみたいなキャラクター大好きです。友達にいたら絶対ヤだけど(笑)。その前に、友達にならないな…。いや、ちょっと知り合いに似た子がいるなって今思った…。別にぜんぜんそんな親しく遊ぶような仲じゃないから良いんだけども…。

しかして、愛するヒロイン像は私の中では絶対的にスカーレット・オハラなんですよね。『風と共に去りぬ』。やっぱり身近にいたら困るけど。ちなみに『ティファニーで朝食を』もそうですが、原作は読んでいませんすみません!! 昨日の記事で散々スター・ウォーズスター・ウォーズ喚きましたが、映画の全ては『風と共に去りぬ』に込められていて、それさえ観ていればあまり不足はないんじゃないかと思っている節もあります。1939年制作にして時の流れで風化することの一切ない傑作、としか言いようがないで御座いますよね。今日『ティファニーで朝食を』を観て感じたんですが、制作された当時から既に時代モノであるということ、そして人種差別的表現を(原作には割と多用されていると伝え聞いています)省き切ったこと。時代を感じさせない、ということに重要なのはその点なのかなと感じました。

ところで先日(って言っても1ヶ月以上前だけど)『ヘイトフル・エイト』を観たのですが、超・超アメリカ!! でした。すごく面白かったけど人様にはお薦めできません(笑)。ダメな人は最初の5分で拒絶反応示すんじゃないかなぁ。物語が進むと暴力描写・性的表現も過激になってくるけど、なにより序盤から苛烈な差別表現が物語の屋台骨として執拗なまでに多用されるので。ただし、今この時代に制作されたこの映画に関してはそれこそがテーマなので必然的なものだし、それがこれ以上ないくらいにアメリカ的クライマックスの演出に繋がってくるわけだけれど。

風と共に去りぬ』の話…。スカーレット・オハラの生命力というか、女性的には弱く愚かではあるけれど、人間としての生命力が圧倒的でありその危ういまでのアンバランス感が私を惹きつけるのだろうなぁと思います。憎い恋敵であるメラニーを抱えて、かつての良家の令嬢がボロボロになりながら手綱を握り、時に豪雨に打たれ川に身をひそめてまでの過酷な逃避行を成し遂げられる。あのシーンが私、すごく好きだなぁ。

という『風と共に去りぬ』、今までで3回観ました。複数回観ていて、はっきり数を覚えているのはこの映画だけです。それだけ1回1回に思い入れだあるからなんでしょう。1回目は中学生の時にTVで。当時、テレビ東京が(B級アクションだったりを放送することが多いイメージですが)20世紀の名画100本を放映するみたいな企画をしていて、たぶんあの企画で私はずいぶん色々と観ることができたんですよね。『風と共に去りぬ』に関しては前後編2週に分けて放映していました。それが1回目。2回目は大学生の頃かな、実家に名画シリーズみたいなDVDが仕入れられていて、それでTV画面で観ました。

3回目、これは昨年です。念願かなって映画館のスクリーンで。午前十時の映画祭7 デジタルで甦る永遠の名作という企画がありまして、昨年度のラインナップにあったんです。今日の『ティファニ~』もこれで観ることができました。本当に、夢かなったとはこのことで。タラのテーマを映画館で聴けるなんてねぇ…。そして年齢を重ねるごとに、観るたびに重みを増してくる。重すぎて今後数年は観なくても大丈夫かなとは思っちゃうけど(これが『スター・ウォーズ』との感触的違いになるのかな)。特に後半はツライよね…。この後どうなるか分かっちゃってるからツラすぎるよね……。

映画館で完全オリジナル版を観て驚いたのが、序曲・幕間(休憩、曲アリ)・終曲が存在するということ。DVDでも省かれていたから初めて知りました。びっくり。古き良き時代、というのを体現しているのだなと改めて感じる演出でした。それにより古風さが誇張されるというわけでなく、むしろ格調高さが際立つというか。「映画ってこういうもですよ」とためらいなく言ってしまって差し支えが無い。だからこその『風と共に去りぬ』なのだろうね…役者陣の完璧な配置も、演出の妙も、物語の強さも。あと、ヴィヴィアン・リー演じるスカーレット・オハラのことばっかり書き散らかしましたが、レット・バトラーという人物像も当然ながら魅力的で、クラーク・ゲーブルは凄まじくカッコいいです!! 向こう数年は観ないけどね、すごく体力要るから(笑)。でもでも4回目は、いつだろうか。楽しみに取っておきます。

人生とスター・ウォーズなどという大層な

年末に思い立って『スター・ウォーズ エピソード7 フォースの覚醒』を観て以来、ずいぶん久方ぶりに定期的な映画館通いをしております。自発的に通うのは殆ど初めてかもしれない。たまにあの音響が恋しくなってなんとなく行ってたりはしたけども。

スター・ウォーズ』に関しては10歳くらいの時に親の手配により旧3部作(エピソード4~6)をしっかりと、特にエピソード4に関してはタイミングも良くデジタルリマスター版を映画館で観る機会に恵まれまして。なんというか、こういうものの親の影響ってすごいなぁと思いました。勉強しろと言われた覚えはほぼないのですが、漫画を買ってくれたし映画を観せてくれた。まぁ、特に母が好きだったんですよね。その類を、非常に。反面、音楽に関しては殆ど無趣味な人たちだったから(兄に関してもそうだった)、私の音楽遍歴は完全に孤立した歴史を持っているのだけれど。

閑話休題。エピソード7でハリソン・フォード演じるハン・ソロに…老齢のソロに再会した時、それはもう、圧倒的な感動があったわけですよ!! 最初に観た時、私けっこうオーバーアクションだったから隣のサラリーマンのおにーちゃんゴメンね! って思いながらだったんだけども。でも、抑えようもなくてですね。再会に要した20年…(リアルタイムで追っている人はそれが30年になるんですな…)、私の人生と、ハリソンの人生と、スター・ウォーズという稀有な物語の20年…。その時間の重みがガツンときまして。マーク・ハミルキャリー・フィッシャーもそれはそうなんだけど、でもやっぱりハリソン・フォードは年齢を重ねる過程を他の映画で多々観る機会があったからとりわけさ。そのハリソンがソロで帰ってきてさ、もうネタバレでいくけど、最初のセリフが「懐かしいな」って、瞬時に「私も懐かしいです船長ぉぉぉぉぉ!!!」ってなりましたよね!!?

だから、ハリウッドスターとして大成功を収めたハリソン・フォード演じるソロを序盤から登場させ、そして華々しい銀幕から遠ざかっていたマーク・ハミル演じるルークを孤高の隠者として引っ張ったあの脚本は、やっぱり彼らの実際の人生あってじゃないかぁって、けっこう思っちゃうわけです。あの2人の旧3部作後の人生こそが今回の3部作を描いたんじゃあなかろうかって。そしてハリソンは、その役者人生の最初の大輪を咲かせたハン・ソロに30余年を経て帰還し、まっとうしたのだなぁ…。という、人の人生と自分の人生重ねて泣けちゃう現象…。

こんなにスター・ウォーズの話をするつもりじゃなかったんだけども。まぁいいや。どっかに1回ちゃんと言葉にしなきゃだったんだろう。というわけで、親に連れられて月イチくらいで映画館に映画を観に行って、加えて休日にはレンタルビデオをTVで観てた中高生くらいの頃以来、映画を観ています。もう家でじっと画面を見つめ続けるだけの気力体力が無いので、もっぱら映画館です。何本かとても良い映画や、割とどうでもいい映画だけど観て良かったなって映画(伝わらないかもだが、映画に限らずそういうものってないですかね??)を観たけど、少し書いておこうかな。続くか分からないけど。というわけで、スター・ウォーズの話でした。映画館で4回も観たのは初めてだし、今後これを超えてくれる作品が現れるかはすごく未知数。でも、そんな作品に逢えて良かった。あの旧3部作リスペクト感+αスペシャルな感には泣くほかなかったとです。物語にもだけど、語り部たちの物語への愛にもさ。