ぽぽぽ?(仮)

日々もろもろ。

偉大なるギャツビーによせて。

グレート・ギャツビー』(野崎孝訳)を不意に読了いたしました。思いもかけずに。

新潮文庫の100ページあたりのところに栞を引っかけたままにしていたのですが、昨夜はその紐を無視して改めていちばん初めからページを繰ってみました。そうしたら、そのまますらすらと読み通せてしまった。事前になんとはなく、「今なら読める気がする」という予感のようなものはあったのですが、タイミングですね。

今さら私が取り立てて語るまでもなく、というよりも私自身もまた作者であるフィッツジェラルドの人生に魅入られて彼の作品に手を伸ばすにいたったわけだから、20世紀初頭のアメリカの喧騒と悲哀を一手に引き受けざるを得なかったような彼の華麗にして破滅的な人生はあまりにも有名だし、作品にその姿照らすこともまた禁じ得ないのだけれど(元来私は芸術家の作品よりも、実際的な人生そのものに惹かれる傾向が強い自覚はあります)。けれど私にとってこの作品を一読して、よく論評で使われる〝滅びの美学〟という言葉は最中まったく思い浮かばなかったなぁ。

私が胸を打たれたのは、〝過ぎ去ってしまった時代の復活に対する不安なまでの執着〟と、あまつさえその復活には〝自己の理想を投影し実現してくれる他者の存在〟が必要不可欠であるというギャツビーの行動の根幹の願望。自分の願望とピタリと噛み合い、望む世界を(それも過去に1度は存在し、しかしながらすでに終わってしまった世界の復活を)体現してくれることを他者に求める(あるいはその世界は望む姿の他者の存在なくしては決して成り立たない)。

「ぼくなら無理な要求はしないけどな。過去はくりかえせないよ」
「もちろん、くりかえせますよ! わたしは、何もかも、前とまったく同じようにしてみせます。あの人にもいまにわかります」
それを聞いてぼくは――何かを取りもどそうとしているのだ――おそらくは自分に対するある観念をでも――取りもどそうとしているのではないかと思った。彼の人生は紛糾し混乱してしまった。だが、もし彼が、いったんある出発点にもどり、ゆっくりと全体をたどりなおすことができるならば、事の次第をつきとめることができるだろう……

求めたのが隣にいる恋人や家族であったなら、それは一般的な欲求の範疇で済んだのだろう。多少度を過ぎた束縛になる恐れはあったとしても。彼の悲劇的で愚かで、そして恐ろしい点は、5年の間離れていたかつての恋人にその望みを抱いてしまったことであり、それも別にもしかして取り立てて珍しい夢ではないのだろうけれど、その平凡にして強烈な夢想が時に滅びの美学と結果的に言われる収束の道を辿らざるを得なくなってしまったところなのでしょう。

あと、これはやっぱりフィッツジェラルド自身がけっきょくは「東部社会(ニューヨーク)の異邦人」でしかありえなかったからこそなのだろうけれど、積極的に差別的発言をするのはトムだけで、ニックには決して強い同調や発言の描写が無いのは、彼の良心でなくコンプレックスだったんだろうなと。そんなことを思いました。

作家フィッツジェラルドの素晴らしい点は、現実の人生にどれだけ苛酷に打ちのめされても、文章に対する信頼感をほとんど失わなかったことにある。彼は最後の最後まで、自分は書くことによって救済されるはずだと固く信じていた。妻の発狂も、世間の冷ややかな黙殺も、ゆっくりと身体を蝕んでいくアルコールも、身動きがとれないまでにふくらんだ借金も、その熱い思いを消し去ることはできなかった。
今なお多くの読者がフィッツジェラルドの作品群に惹きつけられる最大の理由は、その「滅びの美学」にではなく、おそらくはそれを凌駕する「救済の確信」にあるはずだと僕は考えている。
  ――村上春樹スコット・フィッツジェラルド――ジャズ・エイジの騎手」