ぽぽぽ?(仮)

日々もろもろ。

描き続けることはできなかったとして、在り続ける体温としての。

幼少期から漫画が好きで、商業漫画家になりたいなどと思いこみ、15歳の頃からB4サイズの原稿用紙をカリカリと線と文字で埋め尽くし、そうして出来たものを封筒に詰めて出版社に送り始めた。その生活に終止符を打って、筆を折ったのが26歳の頃だろうか。実はかなり不確かな記憶で、それでもおそらくは25,6歳だとは思う。その曖昧さが物語るのは、描くことをやめたということは私にとってそれほどまでに印象的なことではなかったという象徴なのだろう。

小学校の卒業文集に「漫画家になりたい!!」と堂々と書き、殆ど10年間描き続けたけれど、その10年も思い返してみればおそらくは3年間くらい描いてないんじゃないかという時期が挟まっている。大学受験に勤しんでいた高校3年生の頃と、就職してからの数年間のどこかで1年間くらいと、あとは半年に分けて2度くらい描かなかったという記憶がある。最初の受験の時は「描かない! 大学受かったらまた描く!!」と強く決め込んでの休業だったわけだけれど、他は疲れたから休んでいたという、そういう流れだったのだと思う。

今ではもはや私には何も描くことはできない。不意に何かを描きたいような、そうするべきなのではないかと思う夜も確かにある。けれどその思いは、淡雪の如く次の朝にはきれいさっぱり消え去っている。その度に思うのは、「私はもう何をも描き切る力も持っていないのだ」という事実だけなのだ。「ああ、やっぱりもう描けないのだ」、と。

最後の作品を描いた年齢は覚えていないけれど、最後の作品を完成させた時の心持ちについてははっきりと覚えている。その10年間で、おそらくは50作くらいは投稿したのだろう。その果てに、「横ばいを続ける評価が、この作品で上でも下でも振れたなら、まだ描き続けよう」と決めた。上でも、そして何よりも、下でも。そういうものを描こうとした。最低評価でも食らいやがれ、と。そしてそれは叶わなかった。評価は上がりもせず、そして何よりも残念ながら下がりもしなかった。

その時に私は自分の表現にとってここがどん詰まりなんだということを知ったわけだけれど、それは絶望とか悲しみではなくて、とても自然に体の中に馴染む感覚だった。終わりにするに相応しい、と。そのように私は自分の物語を信じて、休日は文字通り朝から晩まで齧りついて描いていた日々に別れを告げた。そして今の私は何も描けなくなった。描けないということがはっきり分かっている。ひとつの話を最初から最後まで確信を持って物語る語り部足る力を喪失した。この感覚を正確に伝えることはできないように思えるけれど、でもとにかく私にはもう何も描けないのだ。

10年。ブランクを抱えた、便宜上の10年。あの情熱は溶けて消えた。だけど、なににせよ、人に物語を伝えるために言葉を選び続けた日々は重く有益だったと確信できる。表向きの行動としても、内包的な熱情としてのそれも儚く消えてしまったかもしれないけれど、とても強い芯のようなものが私の中に手触りのあるひとつの存在として確固として在るのが分かる。それは未だに体温を持って息をし続けている。

私が人生で得た、それは私にしか通用しないかもしれない、それでもひとつの訓示である。続けても休んでも辞めても、一見して消えてしまったかのように見えたとしても、強烈な意志を持って費やした時間はひとつの結晶になって共に生きていく。だからこの先どこに流されようと、再び情熱を捧げたことを続けても休んでも、そして捨て去ってしまっても、それはいつでも自分自身として在る。在るのを感じて進んでいく。

けれどいつか再びめぐり逢えたらと、おそらくは願ってしまうだろうし願っていたいとも思う。そしてそれについては、あまり心配するようなことでもないと思っている。私にはもう何も描けないけれど、それでもそう思う時がある。それでいいと思う。だから、逢えるよ、また。

遠い太鼓に誘われて。

  遠い太鼓に誘われて
  私は長い旅に出た
  古い外套に身を包み
  すべてを後に残して

…例によって村上春樹ですが。
随分と回復してきた気がします。その場になってみないと何も分からないのですが。遠い太鼓がいざなう道も日夜くるくる踊り替わる。
昔の旅の話を思い出しながらつらつら書こうかなぁという気はとてもあります。おそらくそうするのでしょう。


「海運不況とともに彼らは船を降りて、バスの車掌をやったり、レストランの主人になったり、小さな雑貨屋を開いたりしていた。そして彼らはかつて船の上で過ごした日々を、まるで失われた青春を慈しむかのように大事そうに話した。彼らの話を聞いていると、僕にもそれがとても良い時代であったように聞こえた。船に乗ってあっちにもこっちにも行けたような時代。望みさえすればそういう仕事がどこにでも転がっていた時代。
でもそういう時代はもう過ぎ去ってしまったのだ。かのスペッツェス島の商船隊が汽船時代の到来とともに没落してしまったのと同じように。」

習作としての言葉たち。

「続けるだけじゃどこにも辿りつけない」

船を降りる直前に彼は言った。
いや、以前から言い続けていた。
「続けるだけじゃ意味が無い、希望を提示しなくてはならない」。

それに加えて私自身が学んだことは、
「続けることによって在ったはずの美しさが根こそぎ破壊されて思い出せなくなってしまう危険がある」。

今船を降りれば、あるいは丁寧に時間をかけて船を修理して、もう1度海原を走らせることは可能かもしれない。その可能性が微かでも残っているのならば、おそらくは降りるべきなのだ。
修理すべき時を見誤り、帆も舵ももはや修復不能となり船底からの浸水に船体が大きく傾き、底知れぬ海中へと引きずり込まれてからでは遅いのだ。あるいはもう少し船を走らせれば、地上の楽園のような島に行きあたるのではないかという根拠なき妄執に囚われてはならないのだ。


私はそれを、理解する。
私自身の経験として。
そして、思いを馳せる。
全く見当外れかもしれないけれど、それでも触れられたような気になる。
それでいいと思う。
だって私は今、泣いているのだから。

俺は泣いているのか。

Return to Earth

全てを呪う前に、
心と体がバラバラになって意味を失う前に、
土へ還ろう

と、彼は歌った。

眠れない人々が
街を泳ぐけれど
溺れているようだ
俺は泣いているのか

どうしてこんなに
ボロボロなんだ
どうして毎回
ボロボロなんだ

続けるだけじゃどこにも辿り着けない

感動は希薄になっていく

きっと一人になって
一人の未来について
考える時なのさ

だから、真っ白い家に帰ろう、と彼は歌った。
アルマゲドン』みたいな派手な帰還はできなかったけれど、泥にまみれて傷にまみれてそれでも誰しもがささやかな幸せに帰れるのだと。
その悲しい物語を、リリースから1年経って、私自身の物語としてストンと落とし込む。出来得るならば、私も希望を提示し続けたかった。試みることで、それがどんなに苛酷なことかを思い知る。だから、私はもう、「早く再開して」なんて口が裂けても言えないんだろう。ただ、傷が癒えるのを静かに待つ。その家から今1度航海に赴く日を、待つ。港を出ないなら出ないでそれはそれで構わないとも、思う。そこは朝日も夕日も、昼の青空もけぶる月夜も、しと降る霧雨も寄せる波も美しい港だから。

だけど先日、『Cry for the moon』を歌う彼の視線の先に、もう1人の彼の影を見たような錯覚に陥った。そうであれば良いと、私は港を遠くに眺める岬の小さな家の窓から祈っている。祈りも通じないなんて、寂しすぎる。私自身がもう2度と、傷つけ合って別れたあいつと同じ道を走れないことを承知しながらも。ただ私は祈っている。


期待など無い
苦しみしかないが
おまえの愛は
俺だけのもの

恐ろしい
許し難い
お前の愛は
俺のもの

時間などない
憎しみが募った
お前の愛は
俺だけのもの、と

続・あまり長くなく且つ他人の言葉を。

「彼らは互いをあるがままに受け入れ、理解し合った。一人ひとりがそこに深い幸福感を抱けた。しかしそんな至福が永遠に続くわけはない。楽園はいつしか失われるものだ。人はそれぞれに違った速度で成長していくし、進む方向も異なってくる。時が経つにつれ、そこには避けがたく違和が生じていっただろう。微妙な亀裂も現れただろう。そしてそれはやがて微妙なというあたりでは収まらないものになっていったはずだ。

シロの精神はおそらく、そういう来るべきものの圧迫に耐えられなかったのだろう。今のうちにそのグループとの精神的な連動を解いておかないことには、その崩壊の巻き添えになり、自分も致命的に損なわれてしまうと感じたのかもしれない。沈没する船の生む渦に呑まれ、海底に引きずり込まれる漂流者みたいに。

シロはおそらくそんな状況から逃げ出したかったのだろう。感情のコントロールを絶え間なく要求する緊密な人間関係に、それ以上耐えられなくなったのかもしれない。シロは五人の中では疑いの余地なく、最も感受性の強い人間だった。そしておそらく誰よりも早く、その軋みを聞き取ったのだろう。」


割と長かった……。
村上春樹が多用する「損なう」という言葉の本質を人生の実感として私は今初めて理解したような気がする、そんなお年頃です。
――「楽園はいつか失われるものだ」。



「いや、おれは冷静でもなければ、常にクールに自分のペースを守っているわけでもない。それはただバランスの問題に過ぎない。自分の抱える重みを支点の左右に、習慣的にうまく振り分けているだけだ。他人の目には涼しげに映るかもしれない。でもそれは決して簡単な作業ではない。見た目よりは手間がかかる。そして均衡がうまくとれているからといって、支点にかかる総重量が僅かでも軽くなるわけではないのだ。」

あまり長くなく且つ他人の言葉を。

少し前から長い文章を書きたくなって、けれども最初の一言が全く思いつかずに放置していたらその波自体が沖合に引いてしまったという残念な結果から改めて文章を始めてみるよ!!


村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を、読了時期以来ぶりぐらいで読み返したり。きっかけは9月13日のあのライブだったんだけど。
たぶん、それを自分でタイピングしたいだけなのでタイピングします。それだけ。

「私たちが私たちであったことは決して無駄ではなかったんだよ。私たちがひとつのグループとして一体になっていたことはね。私はそう思う。たとえそれが限られた何年かしか続かなかったにせよ」

「でも不思議なものだね。あの素敵な時代が過ぎ去って、もう二度と戻ってこないということが。いろんな美しい可能性が、時の流れに吸い込まれて消えてしまったことが」

「すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃないんだ。僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じることのできる自分自身を持っていた。そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない」

FoZZtone数え唄 -24-

HANDSOME8.2014年4月5日@下北沢風知空知
ハンサム夕方の部。恐怖の2回回し2以下略。やる方もやる方だし、観る方も観る方だし(笑)。でももうちょーお楽しかった! この頃からアイドルだとは言ってたけど、今はもう本当にアイドルなので遠慮なくきゃーきゃー言えるけど。やっぱりまだちょっと遠慮があったかもしれないから、今年以降はきゃーきゃーしてこ!! あと、失踪事件のカタがついた日でもあったよね(笑)。

渡會さん29.2014年4月6日@下北沢風知空知
語る言葉が不必要な、それはそれは素晴らしいライブだった。とんでもないほどたっぷり余すことなく演奏してくれた。お誕生日、おめでとう。毎年お祝いできることを心から幸せに思います。大好きだよ。

71.2014年4月11日@福島Outline
本当は2月に開催されるはずだったイベントが大雪で中止になって(フリー切符で行こうと思っていたので、雪の中払い戻しに行った記憶…)、でもおんなじメンツで直後に振り替え日程が発表されたので無理を押して新幹線で行って新幹線で帰ってきたリッチか!? でも、planeが出るのって、私、本当に外せなかったんだよね。けっきょく、FoZZtoneとplaneだったんだなって。20代前半を一緒に駆け抜けてくれたあのバンドも、10代の闇の中で鳴っていてくれたあのバンドも。今も大切だけれど、生身の存在として添い遂げるのはこのバンドたちなのだなと。フォズは活動休止して、planeはオリジナルメンバーを守りながらも細く活動しているけれど。私が変わっていくように、彼らも変わって、それでも一生続けることができるなら。なんて素晴らしいんだろうと思うのです。

72.2014年4月13日@長野CLUB JUNK BOX
GOING UNDER GROUNDのツアーにお呼ばれしたライブ。竹尾さんが「名古屋ー!!」って叫んだ直後に「やっべ!!!」って言ったこのライブ、みんなで示し合せて『Shangri-La』でサイリウムを振り回しました(笑)。『TOGH!!!』聴けて嬉しかったなぁ。「今日は丈さんに捧げる」って言った『LOVE』は、もう。〝世界の果てより遠くで待っている 互いを損ない去っていく君へ〟か。まさしくだね。

竹尾さん4.2014年4月20日@下北沢GARAGE
Sweet Spot本格始動。藍坊主の田中さんと。ギタリストの話を聴く機会はなかなかないので(ベーシスト、ドラマーもだけどもね)、稀有な機会としてこれからも楽しみにしています竹尾さん。