ぽぽぽ?(仮)

日々もろもろ。

2016年 映画の旅②

ものすごい主観であります。
かなり偏った趣味だと思われます。ラインナップ的にも。
「2016年に映画館で観た」作品を扱っています。ので、制作年度は準じていないです。
あと、基本甘口評価でいきたいタイプです。

マクベス ★★★☆☆
しんどかった・・・(笑)。ただ『レヴェナント』と違うのは美人(マリオン・コティヤール)がおわしましますことと、尺が短い(120分だから標準なんだけど、『レヴェナント』が3時間あったからさ…)こと。でも重厚であるのはシェイクスピアであるからにして、シェイクスピア史劇に手っ取り早く触れられます。ワタクシめなどは『マクベス』と聞いて真っ先に浮かんだあらすじがどー考えても『リア王』で、「違うな…??」と気付いて次に浮かんだのが『オセロー』という酷い有様でしたが、これで『マクベス』が何たるか分かったよ!! 荒野の魔女たちの瞳が印象的でした。

マイ・フェア・レディ ★★★★☆
オードリーは本当に素敵だなぁ…。しかしそれよりも何よりも序盤の不快な喋り方の怪演ヤバかったなぁ……。やっぱり時代は感じるんだけど、でも各所で笑いがこぼれていて、笑いの間って時代も国も越えるんだなぁと実感いたしました。上映中に休憩があったのは『風と共に去りぬ』以来の2度目の経験でしたが、その間に劇場内に売り子さんがフードとドリンク売りに来てそれもなんかとても良かったです(笑)。

ヘイル、シーザー! ★★★☆☆
古き良き時代の映画を観た直後にこちらを観ました。そういう形で観ることができて良かったなぁと。劇中劇『ヘイル、シーザー!』は『ベン・ハー』へのオマージュなんでしょうけど、その『ベン・ハー』リメイクの報を聞いて「あうへはぁあ~~??」って気持ちです(笑)。

ロシュフォールの恋人たち ★★★★★
私! こーゆーの! すごく! 好きなんだ!! ってこの歳で初めて気付いた(笑)。ぜったい苦手だと思ってたし、だからと言って別に避けようとするでもなく、よっぽど積極的にならないと出会えないよねぇ。かなり遅まきになってしまったけれども、とにかく出会えてよかった。大音響でずーっと大仰な音楽が鳴ってるのすごーい楽しい。演出も衣装もちょー可愛い。ミュージカル駄目って人がいるのもものすごくよく分かるんだけど、なんかもうずっと楽しかった(笑)。あのラストシーン観たら、やっぱりフランス人ただごとじゃないなって思いました!!!

神様メール ★★★★☆
すべてが無茶苦茶なんだけど、映画も漫画も小説もこのくらい荒唐無稽であって欲しい!! すべからく切実なことは物語の形を取って語られるべきだし、それは思いっきり現実離れしていて欲しいの。私にとってはその方が、沁み込むように受け入れられるから。ビリ・グロワーヌ演じるエアが超キュート。私自身は宗教的には日本の土着信仰(アミニズム逞しい野性的な神道)と大乗仏教と無宗教をないまぜにした思想なんですけど(どんなだよ)、クリスチャンの人とかその他宗徒の方はどう感じるんだろう。最初の歴史を語るシーンとか世界観いろいろ飛躍しまくっててすごかった。

ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出 ★★★☆☆
サラ・ガドンが美し過ぎた…。ドレス姿が美しいのはもちろんなんだが、軍服。あれ、あれヤバイね……。「他言無用よ」って、あれ、あれな…!! 物語としてはちょっと辛めの『ローマの休日』であり、戦争という時代背景があるために主人公たちはアン王女たちよりも大人で分別があり、そして悪戯心がある。それにしても歴史上の有名人、特に生まれた時から宿命づけられた王侯貴族は存命中からこうやって描かれるから大変だなぁって思いました(笑)。本作で言えばマーガレット王女とか、損な役回りよね(笑)。まぁ、彼女はすでに他界しておられますが。冒頭に実際の当時の映像が使われているんだけれど、それがすごいぐっときました。

素敵なサプライズ ブリュッセルの奇妙な代理店 ★★★☆☆
すっごい素朴なメン・イン・ブラックみたいな(違う)。で、しっかり泣かせられるって言うね(笑)。それにしても字幕色分けは初めての体験だった…。オランダの作品だから、ただでさえあの国って言語が入り乱れてるんだよね。ナチュラルにぶっ込んでくるよね、困惑だよ(笑)。ヒンドゥー語きたときは本当にぶっ飛びました(笑)。

バック・トゥ・ザ・フューチャー PART1 ★★★☆☆
子供の頃に観てたかったなぁ~。この歳まで1度たりとも観たことなかったんです、なんでだろう。さんざんTVとかでやってただろうに。わくわくしたし面白かったんだけど、たぶんこの歳で初見じゃなくて10歳の頃観た感覚を思い出しながら再びスクリーンで味わいたかったので、なんか悔しい。悔しすだよ。

ブルックリン ★★★☆☆
「忘れてた ここはそういう街だった」、その一言の後に走り出すヒロインにぐっときました。人生はそうであっていいんだよって背中を押してくれる。ヒロインの周りの男性陣にはいっさい惹かれないんだけど(笑)、女性陣の強さと美しさがたまらなく魅力的でした。大人の女性があどけない女の子をちゃんと導いてあげるの、素敵よね。あと本筋には大きく関係ないのだけれど、アイルランド移民の貧しいおじいさんの独唱が胸を衝く。あれはなんだろう。美しい佳作。

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2016年 映画の旅①

ものすごい主観だYO☆
かなり偏った趣味だと思われます。ラインナップ的にも。
「2016年に映画館で観た」作品を扱っています。ので、制作年度は準じていないです。
あと、基本甘口評価でいきたいタイプです。

スター・ウォーズ エピソード7:フォースの覚醒 ★★★★★
…2015年のうちに2回観ているんですが、2016年にも2回観たので……。まぁ、そういうことです。旧3部作で胸ときめかせたキャラクターたちに、現実のそれぞれの人生(俳優さんと、そして私のね)を越えて再会できるなんて感無量でした。作り手の完璧な愛が支え切り、さらなる力を得て蘇ったあまりにもスター・ウォーズスター・ウォーズの世界に、引き込まれないわけにはいかなかった。そしてBBの可愛さは無敵。

オデッセイ ★★★☆☆
私、現実的なのより案外ぶっとんだのが好きなんだなって思いました(笑)。流れがひとつも裏切ってこなかったので安心して観ていられたです。最後、案が出た時点で絶対それやるよね! やらないわけないよね!! みたいな(笑)。マット・デイモンはもちろんものすごく達者なんだけど、まったくときめかない(笑)。

ヘイトフル・エイト ★★★★☆
面白かったです。人にはオススメできないけど(笑)。今調べたらアカデミー賞の作曲賞獲ってたのね(今かよ)。そう、音楽もとても素敵だった。そして老練の役者たちで埋め尽くされててゾクゾクした。サミュエル・L・ジャクソンが圧倒的にカッコ良かったし、汚れに汚れたジェニファー・リーがめっちゃめちゃ素敵だった。ただやっぱり、いろいろと過激だから、ダメな人は相当ムリだろうなぁとは思います。

リリーのすべて ★★★★★
始まって5分で「これが映画だ」と直感する1作でした。見事。以上。主演2人の美し過ぎる瞳が胸を打ちます。クライマックス、映画館じゅうが泣いててヤバかったけど、私も泣いてたのでアレ。それにしてもアリシア・ヴィキャンテル美し過ぎる…。こちらは大手を振って人様にお勧めできる作品。

蜜のあわれ ★★★☆☆
基本的におっさんが好きだということを自覚していたので大杉連を楽しみに観に行ったら、出番の少ない高良健吾の存在感に持ってかれました。あと、二階堂ふみを楽しみに観に行ったら、出番の少ない韓英恵の存在感に以下同文。日本映画をあまり観ないのは、日本人が日本語で演じているのがどうもそぐわないからです。外国人が外国語で演じていても、分からない言葉をニュアンスだけで聴いているので不自然さを覚えないからです。日本映画でも、だから時代劇は観やすいんです。現代劇は題材的にも苦手なものが多いので。

ティファニーで朝食を ★★★★☆
古き良き時代の1本。もちろん多々時代を感じるところはあるんだけど、時代を経てなお色褪せることなく、流行に流されることなく輝き続けるオードリー・ヘプバーンの魅力。「人生でいちばん派手派手しい役」と彼女は評したそうだけど、だとしても相当可愛らしい役だと思う。まだまだ女優が幅の広さよりも清貧なイメージで売りたかった時代なんだろうなぁ。確かに登場人物みんなダメ人間なんだけど、やっぱりだから、それが素敵なんでしょうなぁ。

グランドフィナーレ ★★★★☆
画面を埋めるのは、難解さを孕んだメタファー。美しいアルプスの麓のホテルに集う、それぞれに人生を抱えたセレブリティたち。ジョークなのか本気なのか。あのチベット僧は何者だったのか。そして彼がなぜ最後にそれを選択したのか。ストレートに分からないことこそが神髄とも言える、味わい深い1作でした。それにしても、いろいろ軽い女の子役の女優さんが本当にそう見えたからあれすごい。あと、ミスユニバースの着衣と裸身の時の豹変ぶり。ただことじゃなかった。


レヴェナント 蘇えりし者 ★★★☆☆
し、しんどかった・・・(笑)。いや、良いよ、良いのは分かるんだけど、画面に華が無いのがこんなにもしんどいものなのかという…(笑)。とある方が「開始5分でつまらないとわかる映画でも、美人がいればそこそこ観られるから美人はすごい」って仰ってたんですけど、なんつーか、その逆だった…(笑)。レオナルド・ディカプリオとスクリーンで再会したの、冗談抜きで『タイタニック』以来だったかも。

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かなりぼわっとした不思議な話。

これは私が体験した、「けっきょくあれは何だったんだろう??」という話であり、そういう話にままありがちですが、とってもぼわっとしています。ふわっふわです。
なんかいきなり思い出したので書いておきます。

たぶん中学生の時だったと思うのですが(それも定かではない)、家族4人で映画を観に行った帰りに、夜道を車で走っていたわけです。午後9時くらいだったでしょうか。父の運転で助手席に私、後部シートに母と兄。田舎の、人家もまばらな片側1車線ずつの、まぁ、普通の道路。
うちの車の前後にも数台車が繋がっていて、田舎のその時間帯の道としてはそこそこの込み具合だったと思われます。当然、視界には前の車の後ろ姿。


突然、前の車が対向車車線に大きく逸れました。私も父も「!?」とびっくりしたのですが、前の車が避けた道路には、謎の茶色い物体が…それも左手の山の方からセンターラインを越えるくらいまで、高さとしても最大で80cmくらいはあるんじゃないかという…肉質のある物体が横たわっていました。それは動物的でありながらも毛はなく、頭や手足なども確認できませんでした。動くような気配と言ったものもありません。しかしながらそれは決して土砂や倒木ではなく、肉感のある、茶色い何か…知ってる人にしか伝わらないと思うのですが、「『スター・ウォーズ』に出てくるジャバ・ザ・ハットのしっぽの方がでろ~んを横たわっている」…冗談抜きでそれです。

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一瞬のうちに父も思い切りハンドルを切って、その物体との衝突を避けました。幸いにも対向車はなく、その場を切り抜けました。うちの車に続いていた後ろの車も、同様にして避けたようでした。

その後5分ほど走らせて無事に自宅に帰り着きました。しかしその車中から「いったいあれは何だったのか?」という議論は白熱。特に後部座席の母と兄は、前方の私と父ほどには状況を理解しておらずにいました。そして帰宅して10分ほどたった後、兄と父2人が「もう1回見に行って来る!」と言って再びその現場へと向かって車を出しました。

そしてまた10分後、父と兄は帰宅しました。そしてこう報告してくれました。


「何もなかった」


・・・以上です。

運動はとても苦手です。

そもそも血液成分が平均値より薄いので、全てにおいて息切れします。酸素が足りない。

●長距離
小学6年生の頃、2kmを9分くらいで走れました。それがピーク。もう無理。

●短距離
ぜんぜん関係ないんですけど、小学校のグラウンドが小さくて、斜めにムリクリ50mのコースを作成していました。そこには余裕と言うものが存在しませんでした。そんな感じです。

●水泳
中学校にプールが存在しなくて(小学校にもしなかったんだけど)、なぜか近所の体育系大学の水球用のプール(水深2m)を拝借して水泳の授業を敢行し、結果溺れた。誰にも気付かれなかったので自力で這い上がった。水には入るものじゃない。

●バスケットボール
ルールが分かる。なぜなら小学校時代ミニバスケットボールをやっていたから。レギュラーだった。人がいなさ過ぎて(学年女子7名)。でも、最後の大会で市内11校中3位になった。今思い返すとすごくナゾ。なんで???

走り高跳び
郡内の陸上大会のために駆り出された。人がいなさ過ぎて。115cmくらい跳んだんだけど、それがどんなもんなのか未だにナゾ。ちなみに110mハードル補欠。短距離の遅さはヤバかったけど、障害物が入ることによってそれが多少なり緩和されたらしい。なにそれ。

●バレーボール
痛い。

●ゲートボール
小学校5-6年時、ゲートボールクラブ所属。ゲートボール、面白いんだけど、道具がちゃんと揃ってないと何もできないのが最大最強の欠点。スティックとボールとゲートと。ハードル高し。

●木
よく登った。今思うと驚異的な腕力だった。土手際に生えてる木から土手側に落ちたことがあるよ。死ななくて良かったね。

水の町とお城の思い出話

水の流れる小さな町が好きです。
小道に寄り添うように水路が張り巡らされているような。せせらぎの音が草木の香りを運ぶような。

旅とも何とも例えようも無く津々浦々を歩いてきたけれど、心に残っているのはそんな小さな町のような気がします。もしかしたら、独りで訪れている町に水の町が多いからかもしれないけれど。そして独りで歩いていると、否が応でも他に気に留めるものが無いから。

宮城県の白石は本当に小さな水の町だったけれど、丁寧に再建されて新しい木の匂いで満たされたお城が素敵だった。その周囲をぐるりと回る水路に、鮮やかな鯉がたくさんいる場所があり、水草が花をつけてそよいでいる流れがあった。お城の脇の、ごくごく普通の神社が印象的だった。

滋賀の近江八幡は、華やかな水の町だった。琵琶湖のほとり、さもありなん。流れにかけられた小さな橋を飛び超えるように渡るのが楽しかった。近くにあった民族資料館に入って、大学生のころを思い出させてもらったり。博物館学、まったく職業には行かせてないし将来的にも望みはないけれど、教養としてとても有難いなぁと今になっても思います。

そんな近江八幡もとても記憶に残っているんだけれど、国宝・彦根城よりも実は白石城の方が好きっていうのはここだけのお話。なんだろうね、白石のお城、本当に素敵でした。ただそれだけの、でも水の町はどこも素敵で大好きだよって、ただそれだけの、思い出話。いつか、郡上八幡に行きたいなぁ。

偉大なるギャツビーによせて。

グレート・ギャツビー』(野崎孝訳)を不意に読了いたしました。思いもかけずに。

新潮文庫の100ページあたりのところに栞を引っかけたままにしていたのですが、昨夜はその紐を無視して改めていちばん初めからページを繰ってみました。そうしたら、そのまますらすらと読み通せてしまった。事前になんとはなく、「今なら読める気がする」という予感のようなものはあったのですが、タイミングですね。

今さら私が取り立てて語るまでもなく、というよりも私自身もまた作者であるフィッツジェラルドの人生に魅入られて彼の作品に手を伸ばすにいたったわけだから、20世紀初頭のアメリカの喧騒と悲哀を一手に引き受けざるを得なかったような彼の華麗にして破滅的な人生はあまりにも有名だし、作品にその姿照らすこともまた禁じ得ないのだけれど(元来私は芸術家の作品よりも、実際的な人生そのものに惹かれる傾向が強い自覚はあります)。けれど私にとってこの作品を一読して、よく論評で使われる〝滅びの美学〟という言葉は最中まったく思い浮かばなかったなぁ。

私が胸を打たれたのは、〝過ぎ去ってしまった時代の復活に対する不安なまでの執着〟と、あまつさえその復活には〝自己の理想を投影し実現してくれる他者の存在〟が必要不可欠であるというギャツビーの行動の根幹の願望。自分の願望とピタリと噛み合い、望む世界を(それも過去に1度は存在し、しかしながらすでに終わってしまった世界の復活を)体現してくれることを他者に求める(あるいはその世界は望む姿の他者の存在なくしては決して成り立たない)。

「ぼくなら無理な要求はしないけどな。過去はくりかえせないよ」
「もちろん、くりかえせますよ! わたしは、何もかも、前とまったく同じようにしてみせます。あの人にもいまにわかります」
それを聞いてぼくは――何かを取りもどそうとしているのだ――おそらくは自分に対するある観念をでも――取りもどそうとしているのではないかと思った。彼の人生は紛糾し混乱してしまった。だが、もし彼が、いったんある出発点にもどり、ゆっくりと全体をたどりなおすことができるならば、事の次第をつきとめることができるだろう……

求めたのが隣にいる恋人や家族であったなら、それは一般的な欲求の範疇で済んだのだろう。多少度を過ぎた束縛になる恐れはあったとしても。彼の悲劇的で愚かで、そして恐ろしい点は、5年の間離れていたかつての恋人にその望みを抱いてしまったことであり、それも別にもしかして取り立てて珍しい夢ではないのだろうけれど、その平凡にして強烈な夢想が時に滅びの美学と結果的に言われる収束の道を辿らざるを得なくなってしまったところなのでしょう。

あと、これはやっぱりフィッツジェラルド自身がけっきょくは「東部社会(ニューヨーク)の異邦人」でしかありえなかったからこそなのだろうけれど、積極的に差別的発言をするのはトムだけで、ニックには決して強い同調や発言の描写が無いのは、彼の良心でなくコンプレックスだったんだろうなと。そんなことを思いました。

作家フィッツジェラルドの素晴らしい点は、現実の人生にどれだけ苛酷に打ちのめされても、文章に対する信頼感をほとんど失わなかったことにある。彼は最後の最後まで、自分は書くことによって救済されるはずだと固く信じていた。妻の発狂も、世間の冷ややかな黙殺も、ゆっくりと身体を蝕んでいくアルコールも、身動きがとれないまでにふくらんだ借金も、その熱い思いを消し去ることはできなかった。
今なお多くの読者がフィッツジェラルドの作品群に惹きつけられる最大の理由は、その「滅びの美学」にではなく、おそらくはそれを凌駕する「救済の確信」にあるはずだと僕は考えている。
  ――村上春樹スコット・フィッツジェラルド――ジャズ・エイジの騎手」

私は文章についての多くを。

「僕は文章についての多くを…に学んだ。殆ど全部、というべきかもしれない」。

村上春樹がそのデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭で記したそこには〝デレク・ハートフィールド〟という、架空の作家の名が入るわけですが。私にとって人生で初めて小説の文体に衝撃を受けたのは村上春樹その人でした。もう20歳とかになっていたから衝撃を受けるには相当遅い気もするけれど、それほどまでにそうだったとも言えるかもしれないです。

割合、文学少女(死語ですか??)、次いで少女漫画オタクという育ち方をしたので、人並みには文章に触れる機会を持てていたのだと思いますが、だからこそ今まで読んできた文章とは明らかに異質なものとして衝撃的だったのだと思うのです。漫画にとってその役目を担ってくれたのは川原泉さんだったのだけれど、川原作品に出会ったのは小学生の時だったので、衝撃というよりも私の中のスタンダードにそのまますっぽりなりえたというか。母親に「口調が川原泉の漫画の登場人物っぽい」と言われたほどには私は川原さんの強い影響下にあります。

小学生の時分、図書室(田舎の小さな小学校だったのでそれは潤沢な目録を有していたとはいえないけれど、当時の私にとっては不足なかった)で片っ端からとりあえず読んだし、中学生以降はもっと長大な世界的名作に挑戦しもしました。とりわけ古典的なものを好んで読んでいた、というよりかは優れた現代作品についての案内があまりなくて、選ぶのに苦労したからかもしれないです。と言いつつ、佐藤賢一さんの『傭兵ピエール』は中学生時代の当たりだったなぁと今思い出しました。でも同時期に読んでいたのは『赤毛のアン』シリーズであったり(全10冊。私はアンの子世代の『虹の谷のアン』『アンの娘リラ』がとても好きです)、『レ・ミゼラブル』であったり(1~4部までを数カ月かけて四苦八苦しながら読み、5部を2日で号泣しながら読みました)、『罪と罰』は大学生の時だったかなぁ。あれは恋愛色が強くてびっくりしました。本当は『カラマーゾフの兄弟』とか読むべきなんだろうけれど、もうこの歳になると19世紀ロシア人の書いたものを手に取る勇気は出ない…。

でも今思えば、海外作家でも日本人作家でも、けっきょく「このひとのファンだ!!」という作家には巡り合えていなかったんだなぁと実感しました。森鴎外夏目漱石も、三島も谷崎もちょっとずつ齧ったものの。だから、やっぱり、村上作品との出会いは強烈で、その夏中に当時の既刊ほとんど全てを読破したのだから、好きと言うほかないし、きっとそれ以上なのだと思います。だから、この場での引用率も群を抜いてしまうのだけれど。

歳を重ねるごとに読める文体が随分と限定されてきてしまっている、読み切ってやるという強烈な意志が著しく減退してしまっているなぁと『グレート・ギャツビー』を前にヒィヒィ言っている今日この頃。文章が気持ちいいからと、すでに何度も繰った文庫のページを再び開いてしまうのだけれど、それでもいいよってヘルマン・ヘッセが肯定してくれるから、今再び自分にとって素敵な作家さんに出会えるまではそれでいようと思います。ヘルマン・ヘッセもいつかちゃんと読める…のだろうか……。